2018年




ーーー8/7−−− よみがえれ!マツタケ!


 
安曇野市農林部主催の「よみがえれ!マツタケ!」というイベントに参加した。この3月に続いて2回目である。

 市内某所の市有地山林を舞台にしたイベントである。そこは、昔はマツタケが大量に採れる場所として知られていたが、近年はさっぱり採れなくなっている。

 マツタケというものは、本来自然の中に発生するものだが、人が山の手入れをすることにより、たくさん出るようになる。それはマツタケが貧栄養化の土壌を好むことによる。昔は、村人が山に入って木を切り、枝を拾い、落ち葉を掻いて持ち去ることにより、マツタケの生育環境が維持された。現代になり、里山の周辺でも近代化が進み、山に人が入らなくなると、マツタケの出現はめっきり減ったという。今回の一連のイベントは、山の整備を行えばマツタケがよみがえる、という理論に基づく活動である。

 初回の3月のときは、専門の研究者を招いて講義を受け、その後林に入って整備作業を実施した。今回はいきなり林に入り、3月に作業をしたエリヤを点検した。前回の整備でかなり綺麗に片付けたはずだったが、この数ヶ月で雑草が茂っていた。それを除去する作業をした。2時間ほどの作業の後、昼食を挟んで会議室に移り、参加者の意見交換会を行った。参加者は10名、それに市の担当者が2人。参加者10名のうち4人は我ら「有明マツタケ研究会(仮称)」のメンバーである。

 意見を交換しているうちに、早くも「この秋にマツタケが出たらどうするだ」、という話になった。部外者が入ってきて、マツタケを持ち去られたら困るという心配である。

 市有林なので、立ち入りを禁止することはできないが、テープで区切り、「マツタケ育成試験管理地」などの札を掲示することは考えているとの市側の説明だった。すると、そんな表示をすればよけい狙われるのではないか、という意見も出た。

 我がメンバーの一人Y氏が、部外者に採られるのは仕方ないとしても、いつ、どこで、どのサイズのものを採ったか報告して貰うことが必要だと述べた。そうしないと、我々が行っている作業の効果が確認できないと。これはまともな意見である。すると、先ほどとは別の人が、それは無理でしょう、と言った。マツタケを採る人は、採れたということを隠して、将来に渡る独り占めを計るものだと。

 とまあ、世知辛い意見がポンポンと出た。人間性悪説がもろに出たという感じであった。Y氏はマツタケ採りのベテランである。そのY氏に対して、全く経験が無いような人たちが、悲観的な意見を述べた。マツタケに関する世間一般の認識は、こういうものなのだろう。

 マツタケ採りというのは、管理された山と自然な山に分けられる。管理された山は、通常は山主がテープで境界を引き、立ち入り禁止の表示をする。いわゆる「止め山」である。自然な山というのは、山主が管理をしていない山である。そういう山でも、マツタケが出ることはある。止め山の表示が無い山に入ってマツタケを採ることは、黙認される。他人の地所に入り込んで産物を持ち去るのは、犯罪行為のような気もするが、キノコや山菜を採るくらいなら、問題無いようである。

 Y氏はかねがね、ちゃんと整備された他人の止め山に入って、マツタケを採っていくような人は、まず居ない、という事を言っていた。整備をする苦労を知っている人なら、他人の労働の産物をチョロまかすのは気が引けると言うのである。それに整備された山というのは、高額な借地料を払っているケースも多い。そういう場所で盗みが発覚すると、ヤバイ事態となる。取り囲まれてこづかれ、警察沙汰にするぞと脅されて、多額の罰金をむしり取られる事もある。マツタケ泥棒は、命がけなのである。

 最近になって整備を始めた山は、別の問題がある。元々その辺りでマツタケ採りをしてきた人たちにとっては、突然止め山になったことが納得できない。整備などしなくてもマツタケは採れていたという認識がある。山の恵みを頂くという行為には、既得権のようなものがある。そういう人たちは、特に罪悪感を持たずにテープを越える。

 止め山に部外者が侵入しているのを見つけても、法的に訴えることはまずできないそうである。不法侵入という概念は、住居やその敷地に関する規定であり、農地や山林に対しては適用されないとのこと。訴えるには、盗んだ現物を押えなければならない。しかし、背中のリュックにマツタケが詰まっていたとしても、別の場所で採ったと言われればそれまで。マツタケ泥棒を摘発するのは、なかなか難しい。そこで荒っぽいやり方、力ずくの対応も生じるのであろう。

 我々が整備に取り組んできた地元の山も、4年目に入り、そろそろマツタケの大量収穫が期待される。そのマツタケを盗難からどう守るか、メンバー一同の頭を悩ませているところである。

 ところで、このイベントは「松枯れ対策実践プロジェクト」という頭書きが付いている。マツタケ山整備と松枯れ病対策との間にどういう関係があるのか、市の担当者に質問をした。

 その答えの一つ目は、松林を整備するために人が入ることで、松枯れを早期に発見できる可能性があること。早い時点で対処をすれば、被害を食い止める効果が期待できる。二つ目は、理論的に確認された事ではないが、山を整備することで松枯れの発生を押えられる可能性もあるのではないか、とのこと。

 人が立ち入らない領域の自然とは違って、里山は人が入って利用することで好ましい状態に保たれてきた。好ましいというのは、人間にとって、という意味であるが。自然から恵みを頂くということは、自然との関わりを保ち、自然のご機嫌を伺いながら、無理の無い範囲で産物を貰うということである。近代化により、森林の恵みを頂く必要が薄れ、里山に人が入ることもなくなり、縁が切られた。それでも生活に支障は無い、という考え方もあるだろう。しかし、人が入らなくなった里山で、人知れず変化が起きている。その変化は、自然の生態系にとっては、繰り返される転生の一部であろうが、現在を生きる人間にとっては、重大な事態に発展する前触れであるかも知れない。





ーーー8/14−−− 演奏に感情を込める


 海外の一流バイオリン奏者が、日本の公立小学校の弦楽合奏部を指導するという番組を見た。全国大会で賞を取るようなレベルの合奏部だそうである。指導前の演奏を聴くと、正しい演奏ではあるが、硬かった。部員の一人の女の子は、「楽譜どおり間違えずに演奏することで一杯で、感情を込めて演奏をする余裕がありません」と語った。

 指導者は、最初の時点で、楽器の演奏の本質は、演奏家が聴衆に対して感情を伝える事だと言った。そして、演奏技術というものは習得するのが難しく、いくら練習を重ねてもゴールに到達できないものだが、技術が初心者レベルでも、音に感情を込めることはできるのだ、と言った。まさにこの合奏団が必要としているものを、指導者は見抜いたようだった。 

 日本の音楽教育は、西洋音楽が持ち込まれた明治以来、技術的な面に重点が置かれ、演奏を通して感情を表現したり、楽しんだりということに対して関心が低かった、ということを、芸大の教授の講演で聞いたことがある。そういう演奏は、外国人演奏家には、「仏作って魂入れず」と聞こえるのだろうか。

 私がチャランゴを習っているサークルの先生は、上手な演奏を目ざす必要は無いと言う。そうではなくて、楽しい演奏、聞いている人が自分もやってみたいと思うような演奏を心がけなさいと。だから指導はいつも、聞く人を意識した内容となっている。

 率直な感情のやり取りというのは、従来日本人にとって、あまり得意な事ではなかったかも知れない。それが音楽の分野でも、少しずつ変わっていけば良いと思う。




ーーー8/21−−− たこ焼き屋台の体験


 この夏は、二回のイベントで、屋台でたこ焼き作りを行った。区の総代という役に就いているので、率先してそういう仕事もやらなければならないのである。

 我が家には昔から電気式のたこ焼き器具があり、子供たちがいた頃はよく使っていたらしい。しかしその記憶が私には全く無い。たこ焼きという食べ物が、その当時あまり好きではなかったので、加わらなかったのだろう。

 屋台のたこ焼き器はガスバーナ式である。区が新たに一台購入したので、練習を兼ねて試食会を行った。関西出身で、たこ焼きに詳しい人がいたので、指導を頼んだ。試食会は上手く運び、一同は本番に向けて手ごたえを感じた。

 本番の一回目は、子供向けのマス掴み大会。公園の池にマスを放し、子供たちに捕まえさせ、その場で開いて焼いて食べるという趣向。子供と親、スタッフの合計で100人ほどになるイベントである。子供たちに喜んでもらおうと、屋台を出す。かき氷、わた飴、焼きそば、そしてたこ焼きである。

 このときのたこ焼きは、出だしで手痛い失敗をした。銅版に生地がこびりついてしまい、グチャグチャになってしまったのである。バーナーに点火し、油を引いてしばらくしたら煙が出始めた。そのうちにモウモウとなったので、慌てて生地を注ぎ込んだら銅板にこびりついたという次第。後から考えれば、愚かしい失敗であった。

 この一台は、ダメージを補修するのに時間を取られたが、後半は持ち直した。もう一台は最初から上手く行ったので、順調に生産を続けた。結果的には、二台のたこ焼き器で、用意した材料を全て使い果たし、押し寄せた来場者に配り終えた。

 上に述べたこびりつきのトラブルの他に、生地の濃度調整にも反省があった。生地は時間が経つにつれて粘度が大きくなってくる。それに気を付け、随時水を加えて濃度を調整する必要がある。今回のように、大量に生地を作り、長時間に渡って作業をするケースでは、家庭でたこ焼きを作るのとは別の配慮が必要なのである。

 二回目は、二週間後の区の納涼祭。たこ焼きチームは、前回の反省をふまえ、満を持して望んだ。油回し、火力の調整、生地の濃度管理などをぬかりなく行い、何の問題もなくやり終えることができた。最後は品切れとなり、一部の来場者には申し訳ないことをした。もう少し多めに準備をすれば良かったなどと、スタッフからは余裕の発言も出た。

 ちょうど帰省していた次女が、旦那と一緒に手伝ってくれた。二人とも祭り好き、イベント好きなので助かった。この二人を除いた残りの七名のスタッフは、全員60歳以上。祭りの実行メンバーも高齢化が進んでいる。高齢者が汗を拭きながら屋台でたこ焼きを作る景色は、ちょっと滑稽だったが、これからはこういうシーンがむしろ普通になるかも知れないと、ふと思った。




ーーー8/28−−− 簗場の思い出


 
大糸線で大町駅からしばらく北上すると、行く手の左側に続けて三つの湖が現れる。その二番目は、他の二つと比べると極端に小さいのだが、中綱湖という名前が付いている。湖の東側に、簗場駅がある。駅を出て西の方角を見ると、中綱湖の南端にかかる橋の向こうに集落が見える。山に囲まれた小さな集落で、その奥にはスキー場の斜面が立ち上がっている。この集落には、ちょっとした思い出がある。

 高校二年のとき、数学の夏季合宿というのが行われた。その宿が、この中綱の集落にある民宿だった。その当時勉強がちっともできなかった私が、何故そのようなエリート向けの合宿に参加したのか、今では覚えていない。何件かある民宿のうち、どれだったかも、今となっては定かでない。しかし、集落のたたずまいが、素朴で静かだったことは記憶にある。あれから50年近く経った。今でも通りすがりに見ると、集落は昔のままの姿であるように、遠目には見える。

 合宿は一週間ちょっとだったか。連日午前と午後に授業があった。夜もミーティングみたいなものがあったと思う。息抜きは夕方の自由時間に散歩をするくらいだった。

 ある日の夕方、私と同様にあまり勉強ができないのに参加していたY君と二人で、散歩に出た。この日の散歩の目的は、事前に二人の間で決まっていた。二人は宿を出ると、まっすぐに集落を抜け、中綱湖の橋を渡り、駅前の商店に向かった。店に入ると、いささかの緊張感を伴いながら、缶ビールを一本買った。二人で一本である。それを袋に入れて店を出た。来た道を戻りかけたが、橋を渡った先で左へ曲がり、ススキに覆われたような細い道を奥へ進んだ。そして、人目に付かない場所まで来ると、ビールを取り出した。

 その頃の缶ビールは、プルトップではない。先が尖った金属製のヘラのようなものを缶の上縁に押し当て、テコの原理で切り込むと、缶の上面に小さな三角形の穴が開いた。飲むための穴の反対側に、もうひとつの穴、空気穴を開けるのがセオリーであった。

 いざ準備が整うと、ジャンケンで順番を決めた。そして勝った方が、まず一口飲んだ。どちらが先だったかは覚えてないが、飲んだときのY君の、曖昧な表情は覚えている。私にとって、人生初のビールだったが、Y君もそうだったようである。二人で少しずつ交互に飲んだ。「もうちょっとぼくにもくれよ」などと言いながら一本を空けた。口に広がる苦さが、とても印象的だった。もちろん、美味しいとは感じなかった。その一方で、酔ったという感覚も無かった。飲み終わると、何ごとも無かったかのようにして、合宿の宿に戻った。

 これと言って驚きも感動も無い、ビールの初体験であった。それが簗場の思い出である。